ラテン歌手★赤穂美紀。彼女と、歌と、その魅力。

彼女の歌は、ただ太陽のように明るいのではない。                                     
どちらかと言えば、散々降った雨上がりの虹のように、                           
一種の清々しさと、全て洗い流された潔さのある、闇を抜けた明るさなのだ.

ラテン歌手・赤穂 美紀。彼女と、歌と、その魅力。                                       

私が彼女の歌を初めて聴いたのは、去年の4月、雨が降るか降らないか、なんともすっきりしないお天気の、ちょっと気だるい午後でした。地下に潜るような形で階段が伸びる、とあるレストランでの小さなコンサート。普段、あまりこの手の音楽のコンサートに馴染みのない私は、何が始まるのかという漠然とした思いを胸に、ただぼんやりとその穴蔵のような妙に心地の良い空間に身を置いていました。「ただ、ぼんやりと」座っていた理由は他にもありました。私はその頃、まるでエアポケットに入ったかのように人生に迷っていました。多分、誰もが経験すること・・・。でも、私の心には長い間消えない雨雲がずっと居座っていました。

ところが・・・。

彼女が歌い始めた時、何かが私の中で変化し始めました。彼女の佇まいも声も本当に明るくまぶしかった。ラテンの言葉とリズムに良くマッチしていました。でも、それは、ただ弾けるように眩しいというのではなく、もっと 違った耀きを湛えていました。「なんなのだろう・・・これは。」 私はしばし彼女の歌に聴き入りました。

最後の歌に差し掛かった時、私の疑問は突然解けました。Tristeza。ラテン語で「悲しみ」という意味の題名とは裏腹に、明るいアップテンポのこの曲は「悲しみよ、君は長い間私の胸に居座ってくれたね。でも、もう、さよならしましょ。」と語ります。

音楽とは本当に不思議なものだと思います。さっきと状況は何も変わっていない。それなのに、負の感情にどっぷり浸かって身動きが取れなくなっていた私の心は明らかに数分前とは違い、前を向き始めていました。メロディーと歌詞の力だけではありません。彼女の声には、ただ太陽のように明るいのではない、どちらかと言えば、散々降った雨上がりの虹のように、暗闇を越えた後の一種の清々しさと、全て洗い流された潔さのある、ある意味人生を達観したような大人のおおらかさが宿っているように聞こえたのです。私は彼女のその声に、他の人とは決定的に違う何かを見つけたような気がしました。



この人は一体どんな人なのだろう・・・。この境地にたどり着くまで、一体、どんな人生を歩んで来られたのだろう・・・。私は彼女の歌と共に、彼女の人となりに興味を持ち始めました。彼女の師は、入門当初、多数の門下生の中で彼女がそう目立つ存在ではなかったと名言しています。師の言葉を信じるならばおおよそプロの 歌手になるタイプではなかった彼女はしかし、黙々と努力し日々精進を重ねたそうです。実は、最近、彼女を 長年知る方に、彼女の10年前の歌声が入ったテープを聞かせていただく機会がありました。まだ20代。生来の明るさは認められるものの、その歌声は少し不安そうに、儚げに聞こえました。何かに迷っている、あるいは、まだ自身のスタイルに確信がない、そんな感じでした。なんとなく微笑ましくもあり、彼女の隠された一面を垣間見たような気がしました。そして、思ったのです。自分に自信がなかった時期がある。自分の中にあるものをどう打ち出すべきか模索していた時期がある。この迷いこそ、今の彼女の魅力の原点ではないかと。常に自分に自信があり、迷わない人に人の心を打つ歌が唄えるでしょうか?私はこの繊細さこそが歌う側ときく側の心を繋ぐものなのではないかと思うのです。この10年間、女性にとっての20代から30代は、ワインに例えるならばボージョレヌーボーの初々しさから成熟期を経て芳醇な香りを湛え始める時間かも知れません。彼女が女性として、また、歌手として、何を感じ、どう歩んできたのか私たちには知る由もありません。しかし、心をこめて、真摯に歩んできたであろう彼女の今までの人生の結晶を、その爽やかな歌声を通して共有できる事は、私たちの人生にも鮮やかな彩りを添えてくれることでしょう。

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